日韓国交正常化 日韓友好。

日韓の誠心の交。朝鮮通信使

文禄の役

今から420年ほど前、豊臣秀吉は突如15万の兵を送り込み(文禄・慶長の役1592~98)
6年間おびただしい被害を与え、日本に数万人にわたり、連行しました。
徳川家康は、初めからこの侵略には反対の意思を持ち、
天下を握った家康は、「日本の平和なくしては実現しない」と考え、
朝鮮国交回復にの最大の努力をしました。
1604年朝鮮から松雲大師ら僧一行が来日し二代目将軍秀忠と共に、京都で和解のための会見が行われました。
武将によって捕虜となった朝鮮人を返還し、誠意をもって行った結果、国交は回復。
外交の基本方針は「善隣外交」でした。
朝鮮との窓口であった対馬につかえた雨森芳洲は、外交の基本を
「欺かず、争わず、真実をもって交わる」こと(誠心の交)とし、さらには、自国の考え、見方で他国を見て、判断することは、間違いであると指摘した。
朝鮮王朝と国交を回復した1607年から1811年まで友好親善の証として、12回にわたり「朝鮮通信使」が派遣されました。
通信とは、「よしみを通わす」という意味で、400~500人の大文化使節団で、学問、文化、芸術の第一人者が半年をかけてソウルから江戸に来ました。

内3回は日光に。
大変豪華なイベントが宿泊地で盛んに行われ、踊りや行列が各地域の祭りなどが模倣され
踊り子の人形など全国で作られました。
また、江戸時代の人々を苦しめた病もホジュンの「東医宝鑑」の書物が徳川吉宗にもたらされ、
その研究を通じて、日本の漢医学が大きく進歩し、人々を救った。
朝鮮と江戸幕府は、朝鮮通信使という文化交流で200年間にわたる平和を築きました。
これは、世界の平和でもまれなことです。
 
日韓友好パレード

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